2010年01月13日
Feliz ano 2010 + ペルー旅行
Feliz ano 2010
新年明けましておめでとうございます。
新年明けて10日以上が経っているのに、仕事に忙殺されてブログが全然書けなかった。。。
我が家の昨年の年末年始のバケーションは、毎年恒例となった南米ツアー。メキシコ1年目はアルゼンチン、2年目はブラジル、と来れば残りの南米destinationは一つ。そう、今年の行き先はペルーだった。生涯で一回はマチュピチュ・ナスカの地上絵を見ておきたかったので、今年のdestination選びには何の迷いもなかった。
今回のペルー旅行、前半戦はアンデスの山々にある遺跡巡りが中心だったので高地ツアー、後半戦はリマ観光も含めビーチリゾートでのんびり低地でバケーション、という感じ。
でも前半戦の高地ツアー、正直ここまで命懸けのツアーだとは思ってもみなかった。。。まずはマチュピチュ遺跡の旅を中心に書いてみようと思う。
Day-1
前日夜中にメキシコシティーを経ち翌早朝に首都リマへ到着。メキシコ駐在時代に家族共々仲良くして貰ったOファミリーとリマで合流し、早速クスコへフライト。
クスコの標高は3300m!! メキシコシティーより更に500-800mも高い。我々は普段高地には慣れているが、Oファミリーにはキツイだろうということで、クスコから車で1時間ほど低地にある田舎町、Pisacにて宿泊。それでも標高2800mというから、かなりの高さである。実際、クスコに到着した時に「雲が近いなぁ・・・」と思ったほどだ。この日は体調を整える為にも無理はせずホテルでゆっくり休むことにした。
Day-2
この旅行の最大の見所の一つ、マチュピチュ遺跡の観光へ。マチュピチュ遺跡へは、Pisacから車で1時間・ビスタドームという列車で1.5時間・バスで30分、と合計3時間もかかる長旅であった。
じゃーん、遂に到着!!
標高は2400m、インカ帝国9代皇帝・パチュアクティーが首都クスコの避寒地として町を作ったというガイドの説明。
当日は、雨期の為に残念ながら雨模様(→ 誰だよ、雨女・男は!!)で、この写真も最後まで粘りに粘って撮ったもの。
マチュピチュ遺跡の周囲は、一番右の写真にあるみたいに断崖絶壁に囲まれている。当然下からは全然見えない。故に「空中都市・失われた都市」と形容されているんだろう。。。征服者・スペイン軍も上記の理由から発見出来なかった。だから今日こうやって見ることが出来る訳か。。。
左から2番目の写真は、アンデネスという段々畑。確か標高差が200m・温度差が5℃、と上と下で結構条件が違う。これを巧みに利用して、上では寒冷系食物・下では温暖系食物を栽培して自給自足をしていたという。インカ人の生活の知恵に驚いた。
有名なインカ道。インカ帝国には無数の道が築かれ、首都クスコ、そしてマチュピチュに繋がっていたという。左の写真の道、いまでも90km離れたクスコに繋がっているらしい。
インカ道で面白い仕掛けがあるというので見に行ったのが右の写真。真ん中に木で橋をかけているのが分かるだろうか・・・? これ、敵が攻めて来て防ぎきれなくなった時は木を落として道を遮断する為の仕掛けらしい。元々インカ道は非常に細く大勢の人が一揆に押し寄せてくることは不可能なのだが、こういう仕掛けも合わせて作っているとは・・・ 治安が悪かった or 用心には用心をってことなのだろうかぁ。。。ちなみに、マチュピチュには合計6本の道が外部へ繋がっているとのことだった。
麓のお土産物屋で見つけたインカチェス。兵隊~貴族~皇帝まで階層別にチェスが作られている。ま、これはきっとお土産用に作ったんだろうが・・・
ガイドの説明によると・・・ インカ帝国が滅びた理由は主に2つあるとのこと。一つはスペイン軍の銃・大砲をベースにした圧倒的な軍事力 vs インカ軍の石をベースにした原始的な乏しい兵器。まるで子供と大人の喧嘩だったろう。2つ目はインカ帝国の内乱。13代皇帝の時に内乱が起き、インカ帝国が真っ二つに割れた。その内乱をスペイン軍に上手く利用されたということだった。200人にも満たないスペイン軍が、いくら大砲・銃を使っても1万人以上いるインカ軍を簡単に制圧出来たのが不思議だったが、これで納得だ。
今回は、事前にNHKスペシャルで「マチュピチュの謎」を見て、また普段はケチって頼まない日本語ガイドも(Oファミリーの手配で)現地で付いてくれたので、理解力が大幅アップ。やっぱ事前学習と日本語ガイドはいいねぇ~、と妻と満足。
最後は、バス・電車・車で3時間をかけてクスコに本日の宿泊地・クスコに到着。辺境の地にあるからアクセスするのが大変だけど、訪れて良かった。
次回はクスコ観光~チチカカ湖の高地ツアー後半戦を綴ってみよう。
(続く)
新年明けましておめでとうございます。
新年明けて10日以上が経っているのに、仕事に忙殺されてブログが全然書けなかった。。。
我が家の昨年の年末年始のバケーションは、毎年恒例となった南米ツアー。メキシコ1年目はアルゼンチン、2年目はブラジル、と来れば残りの南米destinationは一つ。そう、今年の行き先はペルーだった。生涯で一回はマチュピチュ・ナスカの地上絵を見ておきたかったので、今年のdestination選びには何の迷いもなかった。
今回のペルー旅行、前半戦はアンデスの山々にある遺跡巡りが中心だったので高地ツアー、後半戦はリマ観光も含めビーチリゾートでのんびり低地でバケーション、という感じ。
でも前半戦の高地ツアー、正直ここまで命懸けのツアーだとは思ってもみなかった。。。まずはマチュピチュ遺跡の旅を中心に書いてみようと思う。
Day-1
前日夜中にメキシコシティーを経ち翌早朝に首都リマへ到着。メキシコ駐在時代に家族共々仲良くして貰ったOファミリーとリマで合流し、早速クスコへフライト。
クスコの標高は3300m!! メキシコシティーより更に500-800mも高い。我々は普段高地には慣れているが、Oファミリーにはキツイだろうということで、クスコから車で1時間ほど低地にある田舎町、Pisacにて宿泊。それでも標高2800mというから、かなりの高さである。実際、クスコに到着した時に「雲が近いなぁ・・・」と思ったほどだ。この日は体調を整える為にも無理はせずホテルでゆっくり休むことにした。
Day-2
この旅行の最大の見所の一つ、マチュピチュ遺跡の観光へ。マチュピチュ遺跡へは、Pisacから車で1時間・ビスタドームという列車で1.5時間・バスで30分、と合計3時間もかかる長旅であった。
じゃーん、遂に到着!!
標高は2400m、インカ帝国9代皇帝・パチュアクティーが首都クスコの避寒地として町を作ったというガイドの説明。
当日は、雨期の為に残念ながら雨模様(→ 誰だよ、雨女・男は!!)で、この写真も最後まで粘りに粘って撮ったもの。
マチュピチュ遺跡の周囲は、一番右の写真にあるみたいに断崖絶壁に囲まれている。当然下からは全然見えない。故に「空中都市・失われた都市」と形容されているんだろう。。。征服者・スペイン軍も上記の理由から発見出来なかった。だから今日こうやって見ることが出来る訳か。。。
左から2番目の写真は、アンデネスという段々畑。確か標高差が200m・温度差が5℃、と上と下で結構条件が違う。これを巧みに利用して、上では寒冷系食物・下では温暖系食物を栽培して自給自足をしていたという。インカ人の生活の知恵に驚いた。
有名なインカ道。インカ帝国には無数の道が築かれ、首都クスコ、そしてマチュピチュに繋がっていたという。左の写真の道、いまでも90km離れたクスコに繋がっているらしい。
インカ道で面白い仕掛けがあるというので見に行ったのが右の写真。真ん中に木で橋をかけているのが分かるだろうか・・・? これ、敵が攻めて来て防ぎきれなくなった時は木を落として道を遮断する為の仕掛けらしい。元々インカ道は非常に細く大勢の人が一揆に押し寄せてくることは不可能なのだが、こういう仕掛けも合わせて作っているとは・・・ 治安が悪かった or 用心には用心をってことなのだろうかぁ。。。ちなみに、マチュピチュには合計6本の道が外部へ繋がっているとのことだった。
麓のお土産物屋で見つけたインカチェス。兵隊~貴族~皇帝まで階層別にチェスが作られている。ま、これはきっとお土産用に作ったんだろうが・・・
ガイドの説明によると・・・ インカ帝国が滅びた理由は主に2つあるとのこと。一つはスペイン軍の銃・大砲をベースにした圧倒的な軍事力 vs インカ軍の石をベースにした原始的な乏しい兵器。まるで子供と大人の喧嘩だったろう。2つ目はインカ帝国の内乱。13代皇帝の時に内乱が起き、インカ帝国が真っ二つに割れた。その内乱をスペイン軍に上手く利用されたということだった。200人にも満たないスペイン軍が、いくら大砲・銃を使っても1万人以上いるインカ軍を簡単に制圧出来たのが不思議だったが、これで納得だ。
今回は、事前にNHKスペシャルで「マチュピチュの謎」を見て、また普段はケチって頼まない日本語ガイドも(Oファミリーの手配で)現地で付いてくれたので、理解力が大幅アップ。やっぱ事前学習と日本語ガイドはいいねぇ~、と妻と満足。
最後は、バス・電車・車で3時間をかけてクスコに本日の宿泊地・クスコに到着。辺境の地にあるからアクセスするのが大変だけど、訪れて良かった。
次回はクスコ観光~チチカカ湖の高地ツアー後半戦を綴ってみよう。
(続く)
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